(284)近づく死の領域(第5回)

世の中の出来事

神の意志があるかないかは別として、わたくしは基本的には無神論者ですが、ただ何か霊界というのはあるし、死後の世界があることは信じていますし、何かやはり全体を司るような、神に代わる超越的存在の“意志”は感じることがあります。多分、人々はそれを神と言うのでしょうけれども、宗教の中に存在する神と、ちょっと別次元のような感じはします。 そういうことからするとちょっと難しい話になってしまいますが、今度は、人間の生誕から死において、今、死ぬ時は、結構苦しい状態、即ち病気になったり、事故に遭遇したり、老衰で身体も思うように動かせないような、大変な苦痛を伴って死に到達する訳ですが、では“生誕”の時はどうかという事を考察してみましょう。

人間は生まれてくるときというのは、セックスの快楽を伴って生まれてくる訳ですが、ただ、これは子供を作る夫婦がセックスによって快楽を得るということで、生まれてくる子供が快楽を感じている訳ではありませんね。むしろ母親の産道…胎道⁉を通ってくるとき圧迫感があって、多少苦しいなという風に言われてはいますが、さりとて死ぬときほどの病気になったような苦しみは無いかと思います。

つまり今わたくしがここに書いて述べているのは、神のような超越的存在が、人間に対して、生まれてくるときには、どちらというかというと『喜び』を与えているのに対して、死ぬときは『苦しみ』を与えているように思える…という観点から、そこら辺を細かく論じている訳です。

もちろん病を背負って生まれてくる子もいますので、一概には言えませんが、平均すれば全員が全員病を背負ったり、障害を背負ったりして生まれてくる訳ではありませんので、平均して言えば、むしろ、この世に生まれてくる=誕生ということは、そんなに苦痛は伴っていないように思います。そして、色々な華々しい人生などを経験した後に死ぬことになりますから、そういう意味では“死”はある意味、勲章のようでもあるし、何かそれなりの偉業を達成したお祝いでもあるような気がするので、死ぬということは、ある意味、人生を凱旋するようなものなので、もっと、快楽とまではいかなくても、安楽というか穏やかな状態で 臨むことができるべきではないかと私は思っていますが、どうして病気になったり認知症になったり……かなりの苦しみの連続なのでしょうか?

そして、これはまあ、人間世界の内側の事情にもよるでしょうが、例えば、ブレーキとアクセルを踏み間違えて、そんな高齢になってから人を轢き殺してしまったりして、突然の不幸に襲われるのでしょうか? ただし、これは先にもちょっと書いたように、人間の社会の制度によることが大きいので、一概に超越的存在の意志によるものとは思えません。

(第5回目はここまでです。多数のご意見お待ち申し上げます。第6回目=最終回に続きます。)

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