(285)近づく死の領域(第6回目=最終回)

世の中の出来事

超越的存在の意志というのが何を意味してるのか判らない読者が多いと思いますが、まあ簡単に言えば“神”の意志です。要するにもし神が人間を作ったのであればその人間が色々人生を一生懸命生きてきて、そしてまもなく滅びようとする最後の時に、その神は祝福を人間に与えるというのは自然な状態と想像できるのに、病気や事故で長く苦しんだりする、そういう不幸をなぜプレゼントしてくれるのだろうかという疑問が湧くということです。

ただし、今は医学が進歩したので、多くの病気が治る可能性が強いので、そんな中、不幸にして、癌がステージ4の状況で発見されたりして、治らなかったり治ったりという不幸がくるのかもしれませんね。もっと昔であれば、癌になったら、それはそれで、癌の進行もそんなには速くないので、やがては死ぬんだということを実感しつつ、徐々に生命が収束していって死ぬ…、また認知症になるということは、自分のことがはっきり判らなくなるので、ちょうど赤ん坊が生まれてきて言葉もわからない、算数も分からない、国語も判らない…そんな空白な状態に立ち帰って行くと思えば、これは逆に病気ではなく、むしろ病気の苦しみとか病気のシステムも判らなくなってしまっているので、自分が何の存在か把握できず、ほとんど考えることも無く、そういう穏やかな状態というか、むしろ霧に包まれたような、変な穏やかな状態であるけれども、そういう状況の中で死んでいくということかもしれませんね。

癌や認知症、臓器不全や心臓病は、そういう意味では、緩やかな『死への入り口』…と言っても闘病の苦しさはとても“穏やか”とは絶望的に程遠いとも言えるけれども……と言えるかもしれませんが、ただ多くの病気の場合は、今も書いた様に、激痛が止まらなかったりすることもあると思うので、『苦しみぬいた挙句の死に方』でもあるような気もします。

いつも話がどんどん広がってしまうので、『お前の話しは何が言いたいのか?読み取りに苦労するぜ!』と怒る読者の方もいらっしゃると思いますが、私が今回言いたかったのはシンプルに70歳以上になったら“死の領域”(これが今回のタイトルの意味だったのか!……)とでも呼ばれる領域なので、いつ死んでもおかしくないという覚悟を持って、そして万一癌などの病気になったとしても……それはやはりそういう病気になれば、わたくし自身、こんな事を偉そうに書いても、悲しんで喚き散らすかもしれません……でもそれをゆくゆくは受け入れておとなしくなることでしょう。なので、わたくしとてどうなるか分かりませんが、一応偉そうに書いておくと、病気になっても、それを受け入れ、認知症になりかけてもそれを受け入れ、どのみち、間近に死が迫っている訳ですから、穏やかな気持ちで来世に旅立とうではありませんか…ということを提唱したいということなのです。

では、また皆様のご意見、多数のコメントをお待ち申し上げます。(このトピックはこれで終わりです。また次回の新しい題材にご期待くださいませ。)

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