(176)死後の来世に備える(第3回)

世の中の出来事
死後の来世に備える

 さて、現世についてですが、現世というか、現生は試練なのだという人もいます。魂のステージを上げるとか…でも、そういうことに対しても色々多くの疑問があります。どうして魂のステージを上げなければいけないのか?これも人間が考えた根性論と言いますか、とにかく自分を鍛えて、試練を克服して高位の良い存在になるという事なのでしょうか?でも高位の存在になるということは、結局は、それでいい身分になり、ある意味、お金持ちになって楽をする、洗濯なども自分でするのではなくて、高価な乾燥機までもあるような洗濯機がしてくれる身分になる、移動なども遠い場所に徒歩で行かなくても、運転手付きのベンツが送り迎えしてくれる…そういう高位の身分になる??何かそういう『資本主義の物欲の権化(ごんげ)のような状態』が良い状態であるというような感じもしないでもありません。

 どうして魂のステージを上げる必要があるのでしょうか?そのままの何もない飾り気のない、素のままの存在ではいけないのでしょうか?そんなことを時々考えますが、いずれにしろちょっと生きるエネルギーが半減してきたように思います。と言っても、まあこういう風にエッセイを書こうと思えば、書く気力が残っているんですけどもね。なかなか色々なショックから立ち直れない自分をいつも 不憫に思います。

さて、終わりそうになった、今回のエッセイですが、もう少し続けます。

またちょっと別の話になりますが、以前もこのブログに書いたのではなかったでしょうか?もう私の母親が死んでから5、6年になりますが、母親は1/3ぐらい認知症になって施設に入っていたのですが、そのとき会いに行ったりして、時々一緒にドライブしました。私が30代、40代なんて、母親をドライブに連れ出したことなどほとんどありませんのに、母親の死というビジョンを持ってから急にドライブ沢山行くことになりました。思い出作りでしょうかね。もう何をするにも母親は『まあ、早よう死にたい』というふうに言っていました。

私は最初の内はそんなこと言っていかんという風に物を投げつけたりして(DV…( ゚Д゚)…) 怒鳴って叱っていたのですが(こちらの態度こそ問題ありかもね)でもよくよく考えて接していると、それはある意味、『今日は雨降りそうだね』などという様な普通の人が一般的に用いるごく普通の挨拶と一緒で、『早く死にたい』などという一見物騒な言葉が含まれている発言も、老人がする普通の挨拶であることに気が付きました(もちろんそうでない場合もあるでしょうし、物騒な発言ではありますが…) そして時には『まあ、早よう生まれ変わって、そっちの世界でまた一生懸命行きたい!』ということを盛んに言うようになりました。

 でも今、冷静に考えると、そういう気持ちはわからないでもありません。 人生を会社に例えてはいけないような気がしないでもありませんが、今の会社でうまくいかなければ退職して別の会社に行く、また別の例で、今の学校でいじめに遭っているようならば、また違う別天地の学校に行く(…と言うと、評論家のような人たちはそういう人は別の新しい環境に行ってもいじめられるなどと言いそうですが…)まあ、そういう話は別にしても当然、今の環境が悪ければ、また別の環境でやり直すという権利も充分与えられていいと思うので、そういう意味では、 老い先短い老人が、来生に希望を託すのは当然といえましょう。

老い先短くなくても来生に希望を託して自殺する人もたくさんいるのですからね。そんなことをふと思いました。(長くなったので、今回の第3回目はここで終了します。第4回目に続きます。)

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