(281)近づく死の領域(第2回目)

世の中の出来事

それで思うのですけれども、やはり70歳より上になった時に、事故とか事件で命をなくすというのは除外して、普通に生きて病気になることは当然あるので……要するに老衰とか病気も含めた寿命で亡くなるということですが……簡単にいえば70歳以上になれば、これは(人によっては60歳以上になれば…と考えていただいても全然大丈夫ですが)70歳以上になったらもういつお迎えが来てもおかしくはない……いつガンになったり、大病になったりしても全然おかしくないという風に、しっかり自分で認識をもって、その様に心構えをされるのが良いかと、最近特に強く思います。

また、確かに寿命というか、高齢による老化ということで関連がありますが、70歳以上を越えて自動車を運転なされているような方は、いつ認知症的な症状で、それこそアクセルとブレーキを間違えて大事故を起こしてしまうということも含めて、いつ死んでもおかしくない、どのタイミングで、死界からを迎えがきてもおかしくはないということをしっかり認識すべきだと私は思っています。

『終活』という言葉がありますが、しかしわたくしは、だからといって(つまり前記の様に、いつ人生が終わっても、いつ“死”が迎えに来てもおかしくないから)終活をしっかりしなければいけないという意味でもないと思っています。つまりわたくしは、終活を勧めている訳ではありません……とは今ここで書いたけれども、あ~、ちょっと異なりますね…やはり、わたくしがこれから書こうとしている事は、以前書いた『死に学』(自分の死をデザインする学問)とも関連があるので、色々な次元からの、終活と呼ぶべきものでしょうね、と言ってもそんなに大袈裟なことではないけれども……。

色々商売をやっていらっしゃったり、まだまだバリバ、それこそ若い現役の人たちに負けずに仕事ができるという人は、どんどん仕事をしていって、さらに会社などがどんどん発展して、それこそ今は部長だけど、80歳になったら社長になるなどということを野望に持つとか、夢見るのももちろん悪くはないと思いますが、しかし、まあそれにしてもおすすめすべきは、やはり『終活』というか、どんどん生活の密度を少なくしていって、だんだん存在感を薄くしていくのがいいのではないかと思います。

( 私も結構文章を書いている割には言葉が下手で申し訳ありませんが、何か今まで溜めた本を古本屋で売って整理するとか、自分の仕事部屋の要らない道具を整理するとかいうような意味の終活ではないという意味で、このブログの前の部分に書いたわけです。でもやはり“生活の密度を薄くしていく《具体的にはどんな???》…なんてのも、素朴な『終活』ですね。当然ながら……)(第2回目はここまでです。だいぶん長くなってしまいました。第3回目に続きます。色々な皆様のご意見をくださいませ。お待ち申し上げます。)

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