(137)人を殺すという恐ろしい事件(その3)

世の中の出来事
どうして、他人を殺したり、自分で死んだりが、すぐできるのでしょうか?

なので、こういう放火事件などが起こって初めて、父親などは、『あ~、やっぱり、こんな取り返しのつかない状況になってしまった…』と初めて後悔したのでしょうか…。どうして未然に何らかの措置(叔父を隔離するとか…)を採ってこの惨劇を防げなかったのかと、重ね重ね、悔しく思われます。どうして、こんな恐ろしい虎を家の中に放し飼いにしていたのか、本当に不思議です。でもおまあ、一応は“家族”というか、“親戚”ですから、変な恐ろしい振る舞いをしたとしても、もう長期間にわたると、引き籠りの息子のように、恐ろしいけれども、日常の風景になってしまうのでしょうかね?

さて、2番目に書いた、愛知県弥富(やとみ)市の中学校における同級生刺殺事件です。この事件に関しては、やはり誰もが思うことでしょうけれども、どの程度殺意が強かったのかとか、本来普通に殺意を抱くような事情であったのかが非常に謎で、全くまだ今の報道初期の段階では、全く未解明だと思います。例えば、自分の嫁さんが誰かに殺されたというのならば、旦那はその犯人を憎んで復讐のために殺そうとする……そういう感情の道筋は皆様簡単に理解できると思うのですが、例えばテレビの学園ドラマにあるように、非常に明るく活発でクラスの中心的存在だった生徒が、実は裏では仲間の女生徒をレイプしたり、悪いことを指示する悪のボスだったというような、そんな状況が現実にあったのならば、今回、そういう悪のボスにいじめられていた目立たない生徒の一人が、やにわに反抗して、その悪のボスを刺した…という風なこともあり得るでしょう。そういう様に、裏表のある悪魔のような、人気者のボスの生徒を成敗するという意味で 殺そうとしたのか、それかそんなような事は何もなくて、ただ単に、1回や2回悪口を言われたとか、そういうほとんど気まぐれのような思い付きで、殺してしまおうという殺意を持ったのか、そういうところが非常に解明が待たれるところです。

それにしても1回や2回悪口を言われたとかいうことで、こういう殺意を持って刃物で刺されるとしたら、これからの世の中、色々な意味でとっても恐怖に満ちたものになります。同僚や同級生に、ふと言いたいことも言えないような状況になってしまうと思うと非常に悲しいことですが、やはりSNSとかネット社会が進化して、皆が自分の主張をコンピュータやスマートフォンを通してならいつでも発信できるようになり、そしてきちんとした職業を持たずとも、何らかの臨時のアルバイトの(裏バイトも含む)ような仕事で、充分食いつないで生活できるような状況になり、大きいSUV自動車などもローンを組んで、昔よりは安く、苦労なく手に入るようなことを考えると、やはり世の中は自分中心に回っていると考えてしまうような者も多く出現して、何か自分の気に入らないことがあると、そういう不満を周囲の人間に対して危害を加えたり、報復してやっつけてやろうと思うことが、昔よりも多くなった気がします。

と言っても、今、つい“昔”と言ってしまいましたが、昔と言ったって私が知っているのは終戦後の時代(それも書物で読んだだけ)から昭和60年代くらいまでのことを言うのであって、もっと昔は戦争とか、やはり色々な他人の暴力とかに怯えた時代もあったと思うので、まあそういうような時代が再来したのかという風に考えられないこともありません。つまりいつの世も弱肉強食というか、そういう傍若無人(ぼうじゃく・ぶじん)ですぐ人殺しを思いつくような人間がかなり多くいるという事なのかもしれません。

ただ、みんなが仲良く、しっかりと色々な役目を社会の中で担(にな)って、この社会全体が良い状態で 進んでいくという事を心から願うよりも、とにかく自分が何とか良い評判を得たり、出世したりして、自分が幸福になって生きていこうという、自分が、自分がという存在の人間の方が多くなったような気がするのは、わたくしだけでしょうか?また、皆さんの意見もお待ちしたいと思います。たくさんの意見お寄せくださいませ。(第3回目終了。第4回目に続く)

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