(162)人間関係過敏症…60年間友人ひとりも無し(その1)

世の中の出来事
人間関係過敏症

わたくしは自慢ではありませんが、もう60上生きてきましたが、友達と呼べる人は、この60年間一人もいません。確かに多少人生の深淵にまで到達する話ができるという知り合いがいないでもないですが、わたくしのFacebookやこのブログを見たり読んでもらえば判るように、それにしたって、わたくしが一方的に、世の中はこうじゃないかな…等と語りかけるだけで、真剣にわたくしのためを思ったり、友人的に助言して下さる人はほとんどいませんでした。(今もそういう状態が続いている、英語文法的にいえば、現在完了進行形…( ゚Д゚)……)

それも、こ1~2年のうちに知り合った人であって、そんな直近というか、最近知り合った人の事を、真剣“友人”などと呼びづらい気もします。

まあ、facebookなどを見ていると…、または多くの書物などを読んでいると。 人生にとって一番大事なのは、お金でも高学歴でも、社会を渡り歩いていける農法でもなくて、「友人」だなどというふうに書かれていて、友人こそが苦しみや喜びを分かち合ってくれて、苦しみを半減し、喜びは倍化させてくれるなどと書いてあります。しかし、自分はそういう感じは全く分かりませんし、まあ友人などというものは必要無いものと思ってきました。 確かに、行き詰まった時などはたくさんあります(今までにもありましたし)わたくしなんかいつも、(今や自慢げに)言っているように、父親に無理心中で殺されそうになった経験があるので、やはり根底に、自分はこの世にお呼びでない…生まれてくる必要の無い人間だったのだという思想がどうしても生活というか、気持ちの源流や根底に深く根付いています。もちろん人並みに挫折したことも数回ありますが、でも逆に言えば。 どうせこの世に不要な人間なのだからと思えば、挫折してもそれは当然だと言う風な感じで、挫折の重みを感じないという利点もあります。

すぐ余分なことに神経が行って、話が膨れ上がってしまうのですが、例えば今のことはどういうことかというと、ある人間が、小さい頃から父母もしっかりしていて、生活もしっかりして、ある程度のお金があって、標準的な生活をしていると、当然その人自身も、将来自分もある程度の学校に進んで、社会的な役割をうまく分担して、世の中に自分の役割を果たして貢献していくんだという“気概”というか、心構えが育っている訳ですが、自分のように、小学校の時に、父親に無理心中させられそうになっていると、もう中学生に上がった頃から、本当は自分がこの世に生まれてきていけない存在だったんだなどという心境が心のほぼ全部を占有しているので、当然、自分が中心に世の中が周っている訳ではなくて、というよりも、中心に回っているどころか、世の中の本当に隅っこの方にすら自分の居場所は無いのではないかと思っているので、そうであれば、当然何をやっても、失敗したり挫折したりする運命だというのが、むしろ普通のことなので、逆説的な言い方にはなりますが、何か物事をやって上手くいったら、逆にこれはおかしいのではないか?自分はこの世の中にお呼びでないのに、こんなふうに物事がうまくいったら、逆におかしい現象だと不思議に思える事が多いので、そういう意味では挫折しても、全然心に悪影響を与えないというか、挫折して当然と思っているので、むしろうまく遂行できた時のほうが、運命に逆らっているようで、びっくり仰天し心の負担が重いわけです。 別に漫才をしている訳ではありませんが、こんなコントのような 感覚を本当に持っている訳です、わたくしは…。精神病かしら……( ゚Д゚)……(第1回目はここまでです。第2回目に続きます。)

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